2016年5月2日月曜日

「RE/PLAY DANCE Edit実行委員会」設立!

2016年2月の初の国際コラボレーションを機に、国際共同製作を推進するプロジェクトチーム「RE/PLAY DANCE Edit実行委員会」を発足しました。
NPO法人Offsite Dance Projectと並走する形で、このプロジェクトを推進していきます。ご期待ください。

今後の予定
2016年度:カンボジア2017年度:フィリピン
2018年度:韓国、日本(東京)
助成:アーツカウンシル東京

RE/PLAY DANCE Edit実行委員会
東京都荒川区西日暮里4-1-6 (有)Green Room内
E-mail: info(@)wedance.jp

2016年4月1日金曜日

2016年度はカンボジア・プノンペンで開催!

2016年度の国際共同製作「RE/PLAY Dance Edit」は、カンボジアの首都プノンペンを拠点にコンテンポラリーダンスを振興するNGO、アムリタ・パフォーミング・アーツをパートナーに実施します。

2016年度の活動:
ワークショップ&オーディション:7月上旬
クリエーション&公演:2017年3月
助成:国際交流基金アジアセンター

参考URL:
Amrita Performing Arts
http://amritaperformingarts.org/

Amrita Performing Artsの代表リティサル・カンのインタビュー 
http://jfac.jp/culture/features/asiahundred07/

2016年3月30日水曜日

リーフレットを発行しました!

2012年の京都から、2014年の横浜、そして2016年のシンガポールの活動をまとめたリーフレットを発行しました。
【A5・8ページフルカラー/デザイン:阿部太一】

ご希望の方は、NPO法人Offsite Dance Projectまでご連絡ください。
E-mail: info(@)offsite-dance.jp


2016年2月25日木曜日

観客からのフィードバックなど

シアターワークスの特設サイトに掲載された観客の感想:
翻訳:齋藤梨津子/写真:LAW Kian Yan



“When I begin to watch the show, the beginning, the performers movement looked quite different and incoherent. And I’m wondering how the story will go on. After some time, I found some differences in the movement even though they did the same thing. I could tell their facial expression, the pace, their breathing, their body was different. I wondered if it was choreographed or if they were they acting or not. It was quite interesting. Because of the performers movements, their bodies are so true; I also found myself breathing so hard and the line between the performers and myself was blurred”. - Haruka Nagao from Japan (Curator)

「公演を見始めた時は、出演者の動きは様々でバラバラに見えたので、この先どんなストーリーが展開していくのだろうと思っていた。しばらくして(60分ぐらい見たところで)、出演者が同じ動きをしているにもかかわらず違いが生じていることに気がついた。顔の表情やペース、呼吸、身体が変化していることがわかった。これは振付なのだろうか、演技なのだろうか、ちがうのだろうかと考えていた。とても面白かった。出演者の身体は、彼らの動作を通じて真に迫るものになっていた。自分も息が上がり、出演者と自分の境界線が分からなくなっていった。」

“I was really intrigued by it. It’s super thought provoking, especially since I myself am a dancer, it’s making me wonder if its really important for me to know why I dance and the purpose behind it. Because these are things that usually change depending on what purpose or the audience you’re performing to; the context really matter. In this performance, there is a lot of undoing of what you learn and the basics that you go through, and I think I myself will find that super difficult if I have to go through it”. - Sabrina Wong, Undergrad (NIE)
「とても興味をそそられる作品だった。ものすごい発案だ。自身もダンサーなので、とても刺激を受けた。なぜ踊るのかということと、その裏にある目的を知ることは、自分にとって非常に重要だと考えるようになった。なぜならこれらの事は通常パフォーマンスをする目的や対象となる観客によって変化するものだからだ。文脈が大いに関係してくる。私たちが学んできた多くの事や経験してきた基本的なことを、本作は打ち砕いていった。もし私がこの作品をやらねばならない立場だったら、めっちゃくちゃ難しいと思う。」


‘Initially found the steps and repetition tiresome. But eventually saw the energy they put into each repetition that finally exploded so colourfully’.– Koh Xin Rui Eleora, 18 Feb
「最初は繰り返しを苦痛に感じました。しかし、ダンサーがひとつひとつの繰り返しにエネルギーを込めていて、最終的にはそれがとても色鮮やかに爆発していることに気付きました。」

‘It was interesting how the different dancers never crossed each others’ paths – almost like different realities all occuring in the same space’.– Clarice Handouo, 20 Feb
「様々なダンサーたちが関わり合うことない様―あたかもそれぞれが同時に別々の現実を生きているような様子―を見ることができてとても面白かったです。」

‘The dancers as a vessel for meaningbut I feel this time I get to see the dancer’s body more’ – Akbar, 17 Feb
「ダンサーは意味を表現するための入れ物のように思っていたが、本公演では彼らの身体により目を惹きつけられました。」

‘Is it crucial to know what dance means? Is it different every time? I have lots of questions now’. – Sabrina Wong Si Hwei, 18 Feb
「ダンスとは何を意味するのか、という問いは実に決定的です。それは毎回異なるものなのか?今私には様々な疑問が浮かんできています。」

‘I’m able to view things both as an audience member and part of the piece’ – Sabrina Wong Si Hwei, 18 Feb
「ここで起こる出来事を観客の一人として、また同時に作品の一部となって、観ることができました。」

‘Very open, leaves a good amount of performance to interpretation’ – Clarice Handouo, 20 Feb
「とても開かれた空間で、作品を解釈するための余地が十分に残されていると思いました」



2016年2月20日土曜日

最終日

公演4日目。
最終公演の前に、記念撮影。



打上げにて。お疲れ様でした!




レビュー/RE/PLAY Dance Editサイト(2016年2月20日掲載) by Ng Yi-Sheng

レビューが、RE/PLAY Dance Editサイトに掲載されました。
「Catch the show if you can!」という挑発的な見出しで始まる長文のレビュー。以下、オンラインでご覧いただけます。

Thoughts on RE/PLAY Dance Edit by Ng Yi-Sheng 
Catch the show if you can!  

https://replay2016.wordpress.com/2016/02/20/thoughts-on-replay-dance-edit-by-ng-yi-sheng/


RE/PLAY Dance Editに対する所感:
「このショーを、観られるものなら観てみろ!」
Ng Yi-Sheng〈ライター〉/和訳(翻訳:齋藤梨津子)

ストラヴィンスキーが1913年に『春の祭典』を初演した時、観客が暴動を起こしたことをご存じだろうか。

昨夜、私もちょうどそれと同じことをしたくなった。真面目な話、『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』が4回目か5回目に差し掛かった時には、客席のパイプ椅子を投げ飛ばし、ケーブルを引っこ抜き、床の照明に火をつけてやろうかと思った。

私は『RE/PLAY Dance Edit』を何の予備知識もなしに観に来ていたのだ。(シアターワークスの)Tay Tongから招待券を貰った。観に行かない理由はない。多田淳之介が本作で反復というコンセプトに取り組んでいることも何も、私は知らなかった。あったのは、コミュニティ・センターでやる以外、大体いつも奇妙な作品を上演しているシアターワークスのことだから、何かしら妙なものを見せられるだろうという心構えだけだった。公演前、私は批評家のMayo Martinに「この作品はダンスといえるものだろうか、それともダンスではないダンス(dance bukan dance)になるのだろうか・・・」と話していた(bukanはマレー語の否定語)。

パンフレットのコメントで多田は、シンガポール人は夜中の12時になるまでクラブで踊ることを拒むということに触れながら小さな可愛い前置き(彼は我々を「逆シンデレラ」と呼んでいた)をしている。それにもかかわらず、本作の最初の1時間少々はまったく「踊りではない」ものだった。それは彼が8人のダンサーに踊らない動きを課していたという事実だけではない―私は、革新の名のもとにダンスという芸術の基礎に挑戦し、破壊していくコンテンポラリーダンス作品を数え切れないほど観てきたので、耐性はできていると思っていた。

違った。それは安っぽい音楽の繰り返しだった。『We Are the World』の二回はまだ耐えられるとしても、という意味である。これは熱烈でキッチュで叙事詩的な曲だから問題ない。だがしかし、1968年に発表された白人男性による耳にこびりついて離れないレゲエ気取りの音楽を10回繰り返すという行為は非人道的犯罪である。(批評家の)Mayoはビートルズの一切の楽曲を10年は聴かないと誓ったと言うが、今世紀いっぱい聴かなくていいだろう。

多田がこのダンス経験の破壊を、スペクタクルな要素を取り去ってしまうところまで推し進めなかったことに、実のところ、ある種の感謝の念を抱いている。なぜなら私は少なくともダンサー達が順序良く整理されたストレッチ運動をしている間、この8人を検証し続けることができたし、彼らと脳内boff/marry/killゲーム(女性3人を選んでセックスするか、結婚するか、殺すかを選ぶゲーム)で何度か遊べたからだ。照明デザイナーによる華麗な影遊びも、もちろん、楽しむことができた。

そして6回か7回目に差し掛かった時、ある種の諦念が芽生えた。この苦痛を、前衛的エンターテイメントとして受け入れるという諦めである。

それは『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』以外のなにものでもなかった。

そこには『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』しかなかった。

だがそこから生まれたのは…大切なものだった。ダンサーたちは立ちあがり、最終公演が終わった後の会話をもっともらしく演じる。疲労困憊、ビュッフェ形式のお祝い、クラブで踊ること、酔っ払い、シンガポールのアート・シーンの話題、彼らの生活のこと、もう二度と会えないこと(日本で再会するという虚の約束)、そしてその後、日本語バージョンの『Save the Last Dance for Me(ラストダンスは私に)』に合わせ、もう一度踊る…

(このあたりで私の記憶は一部空白になっている。)

その後、全くのディスコ・クラブ・ミュージックと共に最後の爆発が訪れる。本物のB-boyの動きや逆立ち、K-popダンスの動作などをちりばめながら、出演者は皆すっかり気が狂ったかのようになっていく。ことごとくあなたを拒んできた公演のクライマックスで、あなたはWow wowと歓喜の声をあげ、出演者は消耗しきって床に崩れ落ちていく…それは見事なスペクタクルだった。

そして出演者は立ちあがり、それを繰り返す。

そして出演者は立ちあがり、それを繰り返す。

見飽きることはなかった。部分的には曲(日本語なのでタイトルは知らない)が良かったからだし、部分的には出演者のファンキーな踊りの動きのためである。私は今や自分の半分の人生を知っているような気持になり、今や本作の根本的な部分を幾分か受け入れるようになってきている。

我々が実際に終わりとカーテンコールに達する前に、他の踊りは段階的に静かになっていった(私はTay Tongが拍手を始めるまで手を叩く勇気のなかった観客の一人である)。しかし、私が感動を覚えたのは、クライマックスの後に真のクライマックスが訪れるという構造的な経験のためではなかったと思う。そうではなく、出演者の人生を垣間見ることのできる、うっとりするほど素敵な窓のようなものがここに現れるという、その手法に感動したのだ。観客としての私たちが望むのは、最終版の美しい作品である。しかし現実に起こっていることは、ありふれた繰り返しに次ぐ繰り返し(フランス語でリハーサルを意味する語は繰り返し[repetition])、そして煮詰まらない状態のまま、動きを通すだけのパフォーマンスを求められる、ひどいテクリハ…

そして本番のときでさえ、あなたは持てる全てを差し出すことになる。

そして次の公演が始まると、あなたは再び全てを差し出すのだ。

これは多田が意図的に行っているのだろうか?おそらくそうだろう?インタビューで彼は集団自殺と東日本大震災か何かのことを語っていた…何か関連があるのだろうか?

そしてこの奇妙な、エンターテイメントの否定、からの成熟した最終部分は、あなたが払った金額の三倍の価値はある。観客を拷問にかけた上でやつらをぎゅっと抱きしめるようなものである(紋切り型の演劇的構造は唯一のクライマックスに集中していくため、時として男性中心主義と言われる。一方実験的な作品は複数のクライマックスによって女性的な快楽を模倣しているのかもしれない)。

そしてこの奇妙な、エンターテイメントの否定、からの成熟した最終部分は、あなたが払った金額の三倍の価値はある。観客を拷問にかけた上でやつらをぎゅっと抱きしめるようなものである(紋切り型の演劇的構造は唯一のクライマックスに集中していくため、時として男性中心主義と言われる。一方実験的な作品は複数のクライマックスによって女性的な快楽を模倣しているのかもしれない)。

そしてこの奇妙な、エンターテイメントの否定、からの成熟した最終部分は、あなたが払った金額の三倍の価値はある。観客を拷問にかけた上でやつらをぎゅっと抱きしめるようなものである(紋切り型の演劇的構造は唯一のクライマックスに集中していくため、時として男性中心主義と言われる。一方実験的な作品は複数のクライマックスによって女性的な快楽を模倣しているのかもしれない)。

私が言えることはこれですべてだ。このショーを、観られるもんなら観てみろ!



レビュー/Today(2016年2月20日掲載)by Mayo Martin

Today紙にレビューが掲載されました。オンラインでもご覧いただけます。

Dance review: Same same but different in Re/Play Dance Edit
by Mayo Martin〈アート批評〉

http://www.todayonline.com/entertainment/arts/dance-review-same-same-different-replay-dance-edit


以下、和訳(翻訳:齋藤梨津子)

RE/PLAY Dance Editのほとんど一緒、だけどちょっと違うところ
「反復の美を強調した大胆不敵なダンス作品」
Mayo Martin

シンガポール―同じ曲を繰り返し聞いたと誰かが大げさに言っても、まさかそれが、次から次へと、10回も繰り返したという意味だとは思わないだろう。

我々はそれを、ビートルズの陽気な『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』で体験したのだった。この楽曲は72-13で上演された『RE/PLAY Dance Edit』という大胆不敵なダンス作品の中心部分に据えられていた。

本作はシアターワークスと日本のOffsite Dance Projectのコラボレーションで、日本とシンガポールの8人のダンサーが同時にパフォーマンスをするという多田淳之介の作品である。繰り返すことを主題にした本公演は、組織されたカオスとでも言えよう。この多田の作品自体は2011年に既に上演されている。当地では8人の出演者は、日常的な身振りとダンスの動きが入り混じった個々人のパートを繰り返す。思案にふけっているような静的なポーズ、驚いたようなポーズ、望遠鏡をのぞいているようなポーズ、飛び上がり、跳ねまわる動き、奇妙なボクシングのジャブ、そして彼らは何度も崩れ落ちる。これらの多くはポップミュージックが流れる中で行われた―『We are the World』、日本のダンスポップ・チューン、そしてそうFab Four(ビートルズ)が最もへんちくりんなタイトルを付けたあのヒット曲。

ビートルズの部分の半分が過ぎた頃、困惑が苛立ちに取って代わったことを認めよう。しかしこのような側面は本作のヴィジョンの一面にすぎない。映画『Groundhog Day(邦題:恋はデジャ・ブ)』のシナリオのように、ここを頑張り抜けば、最後には美しい体験が展開していく様に見とれ、歓喜することになるのだという強い主張が、本作には込められている。

そして、同じ一日を何度も経験するこの映画の主人公で気象予報士のフィル・コナーズのように、究極的に問題となるのは、鑑賞者が自身の視覚体験に対して何を為すかということだ。『RE/PLAY Dance Edit』は決して即席の満足感を提供する作品ではない。その代わり、故意に途中で一時停止させられる楽曲、意図的に不快なほどに上げられるボリューム、照明のトーンの微細な変化、もしくは8人の出演者それぞれの型と順序が、ほとんど目に見えないくらいに変化するといった、作品に埋め込まれたひとつひとつの微調整によって、観客はこのパフォーマンス作品を読み解く際、これらの微々たる変化に耳をすませ、注意深く見つめることを促される。

それは豊かな報酬をもたらしてくれる―異論が出るほど執拗に繰り返される楽曲とパフォーマンスの中で、その前景に描かれたものは何か、パフォーマンスの背景にあるものは何かということを人はゆっくりと意識し始める(男の一人が飛び上がって倒れるのを観るのは三回目だから、もう意識がぼーっとしてきたって?ポール・マッカートニーのベース・リフにズームイン!)。

そしてショーの直線的な展開は(大部分のループする瞬間の集合と、少々の一時停止の中に)放棄されているので、ひとは比較的見慣れたものの中に何かしらの新しさを見出すことに駆り立てられる―つまるところ、一度たりとも同じ方法で本を読み返すことはできないし、同じやり方で音楽を聴くこともできないのである(たとえ10回目だとしても!)。

反復という方法を用いたパフォーマンスの「引き延ばし」という概念によって、出演者もまた解放される。彼らはめいめい多少なりとも自分の型にはまってしまい、自分独自のダンスのボキャブラリーを「所持」してしまうので、結果的に個人として見る者の前に立ちあがって来る。鑑賞者は彼らを出来る限り間近で繰り返し目撃するという贅沢を味わう。例えばT.H.E Dance Companyで訓練を受けているMa Yanlinからは明白さが、他方、Sheriden Newmanからは屈託のない明るさがにじみ出る。Jaenny Chandraには快活なスポーツ熱があふれ、日本人出演者のきたまりは愛くるしい機敏さを発揮する。

この意味での個人性は、出演者が稽古中の会話を言葉で再演する中盤の会話シーンで完成をみる(ヤム・セン[福建語で乾杯の意]の瞬間、Singapore Dance Theatreへの皮肉、友情の深まり)。機械的に見える本作の枠組みにもかかわらず、出演者は自動でダンスを踊っているのには程遠い状態にある。一時間半の上演時間の中で、『RE/PLAY Dance Edit』はかれらの忍耐力と集合的技術も強調している―舞台上に身体を再構成し続ける狂気の中には、偶然など一つもない。それは彼らの空間と身体への意識が高められていることを裏付けている。

私たちはもう今年いっぱい『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』は聞きたくない気分になっている。一方、『RE/PLAY Dance Edit』は「ほとんど一緒だけどちょっと違う」ということを、可能な限りで最も素晴らしい方法で応用した公演だった。そして、否、私たちはその方法を繰り返す必要があるとは思っていない。