2016年2月20日土曜日

レビュー/Today(2016年2月20日掲載)by Mayo Martin

Today紙にレビューが掲載されました。オンラインでもご覧いただけます。

Dance review: Same same but different in Re/Play Dance Edit
by Mayo Martin〈アート批評〉

http://www.todayonline.com/entertainment/arts/dance-review-same-same-different-replay-dance-edit


以下、和訳(翻訳:齋藤梨津子)

RE/PLAY Dance Editのほとんど一緒、だけどちょっと違うところ
「反復の美を強調した大胆不敵なダンス作品」
Mayo Martin

シンガポール―同じ曲を繰り返し聞いたと誰かが大げさに言っても、まさかそれが、次から次へと、10回も繰り返したという意味だとは思わないだろう。

我々はそれを、ビートルズの陽気な『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』で体験したのだった。この楽曲は72-13で上演された『RE/PLAY Dance Edit』という大胆不敵なダンス作品の中心部分に据えられていた。

本作はシアターワークスと日本のOffsite Dance Projectのコラボレーションで、日本とシンガポールの8人のダンサーが同時にパフォーマンスをするという多田淳之介の作品である。繰り返すことを主題にした本公演は、組織されたカオスとでも言えよう。この多田の作品自体は2011年に既に上演されている。当地では8人の出演者は、日常的な身振りとダンスの動きが入り混じった個々人のパートを繰り返す。思案にふけっているような静的なポーズ、驚いたようなポーズ、望遠鏡をのぞいているようなポーズ、飛び上がり、跳ねまわる動き、奇妙なボクシングのジャブ、そして彼らは何度も崩れ落ちる。これらの多くはポップミュージックが流れる中で行われた―『We are the World』、日本のダンスポップ・チューン、そしてそうFab Four(ビートルズ)が最もへんちくりんなタイトルを付けたあのヒット曲。

ビートルズの部分の半分が過ぎた頃、困惑が苛立ちに取って代わったことを認めよう。しかしこのような側面は本作のヴィジョンの一面にすぎない。映画『Groundhog Day(邦題:恋はデジャ・ブ)』のシナリオのように、ここを頑張り抜けば、最後には美しい体験が展開していく様に見とれ、歓喜することになるのだという強い主張が、本作には込められている。

そして、同じ一日を何度も経験するこの映画の主人公で気象予報士のフィル・コナーズのように、究極的に問題となるのは、鑑賞者が自身の視覚体験に対して何を為すかということだ。『RE/PLAY Dance Edit』は決して即席の満足感を提供する作品ではない。その代わり、故意に途中で一時停止させられる楽曲、意図的に不快なほどに上げられるボリューム、照明のトーンの微細な変化、もしくは8人の出演者それぞれの型と順序が、ほとんど目に見えないくらいに変化するといった、作品に埋め込まれたひとつひとつの微調整によって、観客はこのパフォーマンス作品を読み解く際、これらの微々たる変化に耳をすませ、注意深く見つめることを促される。

それは豊かな報酬をもたらしてくれる―異論が出るほど執拗に繰り返される楽曲とパフォーマンスの中で、その前景に描かれたものは何か、パフォーマンスの背景にあるものは何かということを人はゆっくりと意識し始める(男の一人が飛び上がって倒れるのを観るのは三回目だから、もう意識がぼーっとしてきたって?ポール・マッカートニーのベース・リフにズームイン!)。

そしてショーの直線的な展開は(大部分のループする瞬間の集合と、少々の一時停止の中に)放棄されているので、ひとは比較的見慣れたものの中に何かしらの新しさを見出すことに駆り立てられる―つまるところ、一度たりとも同じ方法で本を読み返すことはできないし、同じやり方で音楽を聴くこともできないのである(たとえ10回目だとしても!)。

反復という方法を用いたパフォーマンスの「引き延ばし」という概念によって、出演者もまた解放される。彼らはめいめい多少なりとも自分の型にはまってしまい、自分独自のダンスのボキャブラリーを「所持」してしまうので、結果的に個人として見る者の前に立ちあがって来る。鑑賞者は彼らを出来る限り間近で繰り返し目撃するという贅沢を味わう。例えばT.H.E Dance Companyで訓練を受けているMa Yanlinからは明白さが、他方、Sheriden Newmanからは屈託のない明るさがにじみ出る。Jaenny Chandraには快活なスポーツ熱があふれ、日本人出演者のきたまりは愛くるしい機敏さを発揮する。

この意味での個人性は、出演者が稽古中の会話を言葉で再演する中盤の会話シーンで完成をみる(ヤム・セン[福建語で乾杯の意]の瞬間、Singapore Dance Theatreへの皮肉、友情の深まり)。機械的に見える本作の枠組みにもかかわらず、出演者は自動でダンスを踊っているのには程遠い状態にある。一時間半の上演時間の中で、『RE/PLAY Dance Edit』はかれらの忍耐力と集合的技術も強調している―舞台上に身体を再構成し続ける狂気の中には、偶然など一つもない。それは彼らの空間と身体への意識が高められていることを裏付けている。

私たちはもう今年いっぱい『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』は聞きたくない気分になっている。一方、『RE/PLAY Dance Edit』は「ほとんど一緒だけどちょっと違う」ということを、可能な限りで最も素晴らしい方法で応用した公演だった。そして、否、私たちはその方法を繰り返す必要があるとは思っていない。

0 件のコメント:

コメントを投稿